蔦の実文学会

 
講座日程
 文学覚書  映画覚書
【2026年4月】
 
❄2026年4月11日(土) 10時 ~ 12時
小説の目的 ― 伝えられないものを伝えること
谷崎潤一郎『文章読本』/志賀直哉『豊年虫』を読む
詳細
言葉でなにかを伝える、というのは、簡単なことではありません。「言葉では言い表せないもの」は普通にその辺に満ちています。たとえばニュース記事を読んで、いつどこで誰が何を、はわかっても、どのように?やなぜ?についてはよくわからないことは多いと思います。そもそもそんなことはニュースの役割ではありませんが、仮に試みたとしても、簡単にはいかなそうな気がします。長引く戦争や、激しい非難の応酬、あるいは異常な犯罪事件や、それまで築いた地位や名誉を一瞬にして失うようなスキャンダルなど、なぜそういうことになるのか、よくわからないまま、心に引っかかってしまいます。

谷崎は、小説を「言葉を以て現わす藝術」としたうえで、その目的は、広告・宣伝・報道などの実用文と同じであると断言します。詩歌などをのぞく散文の文章の目的はすべて、「分らせる」「理解させる」ことにある、と言うのです。だから小説の技法は実用文のために役に立つし、実用文は小説のために役に立つ、と考えています。例として、芸術とは無縁の裁判所の調書記録が、その精密な筆のために、時には小説以上のものと感じられることがある、と述べています。

では、小説は、どんな点で実用文と異なるのでしょうか。小説は、どんなことをするから、自らを「芸術」であると自称できるのでしょうか。

小説とは、通常の手段では伝えられないものを伝えようとするものではないでしょうか。私たちは日々、他人に対してわずかのことを伝え、多くのことを伝えずにいます。何かを伝えたいと思っても、ほとんどの場合、どうせ伝わらないだろう、とあきらめています。作家とは、伝わらないと思えることを伝えようとする挑戦者ではないでしょうか。写真や絵画、音楽や映画などに比べて、必ずしもより豊かとも確かとも言えない伝達手段である「言葉」を使って、なにか「伝えがたいもの」を伝えるための創意工夫が、そこにあるのではないでしょうか。

谷崎は、表現の工夫の実践例として、志賀直哉の『城の崎にて』を引用しています。この講座では、さらに志賀の『豊年虫』という短編小説の一部を取り上げ、そこに見出される工夫やその効果について考えてみます。小説に限らず、なんであれ文章を読んだり書いたりするときに参考にしていただけたらと思っています。
 
❄2026年4月25日(土) 10時 ~ 12時
詩が目指すもの ― 音楽的なものによる創造
エドガー・アラン・ポー『詩の原理』/トマス・ムーア『夏の最後のバラ』/LIBRO『破』を読む
詳細
学校卒業以来、「詩」など読んだことはまったくない、という方は多いかと思いますが、ほとんどの方が好きな歌の「歌詞」という形で、日々「詩」に親しんでいるはずです。学校で習い試験で問われた「書かれた詩」というジャンルと、いたるところで響きわたる「歌われる詩」というジャンルとが、何か全然別物のように感じている方も多いのではないでしょうか。

「書かれた詩」を好んで読む方も、特に意識して読んだことのない方も、詩の心地よいリズムや言葉遊びの楽しさを知っていると思います。詩は、言葉を使って作られるもののうちで、最も音楽的であろうとするものの一つです。それは、一定のリズムやテンポ、同じ音や同じフレーズの繰り返し、主題と変奏、強弱の変化、休止や転調、異なる複数の音色の共鳴など、音楽的な要素を自由に取り入れながら、多くの言葉を費やさず、選び取られたわずかな言葉で、多くを語ろうとします。

音楽の力を借りた言葉による創造である詩は、何を目指しているのでしょうか。それは何のために作られるのでしょうか。詩の歴史は古く、人間が言葉を使い始めてからそれほど時をおかずに作られ唄われ始めていたのではないかと言われています。古代の人間にとっての詩と、現代人にとっての詩は、まったく別物になっているのでしょうか、それとも何か変わらぬ目的が連綿と続いていたりするのでしょうか。

この講座では、アメリカの詩人・小説家エドガー・アラン・ポーの『詩の原理』にある、詩の目的に関する一節を精読します。さらに、『夏の名残のバラ』の名で知られるアイルランド民謡の歌詞『夏の最後のバラ』、及び日本人ラッパーLIBROの曲『破』の歌詞を精読したうえで、それぞれの楽曲を聴きながら、詩が目指すものや、詩における音楽的なものの役割について考え、感じていただけたらと思います。

講座ではムーアの英詩に少し触れますが、日本語訳を参照しながら単語等すべて解説しますので、中学レベルの英語知識があれば充分です。また英語が苦手な方でも、英詩は音の問題を考えるために参照するだけですので、意味については日本語訳で考えてもらえれば全然問題ありません。
 
【2026年5月】
 
❄2026年5月9日(土) 10時 ~ 12時
他者の痛み ― 母的なものの力について
中村佑子『マザリング 性別を超えて<他者>をケアする』/川上未映子『きみは赤ちゃん』を読む
詳細
準備中
 
❄2026年5月23日(土) 10時 ~ 12時
過去のひしめき ― 変化の持続について
アンリ・ベルクソン『創造的進化』/津島佑子『真昼へ』を読む
詳細
準備中
 
会場 蔦の実文学会 福岡県北九州市八幡西区熊手2丁目3-16 熊手ピア 9階902号
参加費 各回1,500円 4回券5,000円(4カ月間有効)
 
参加申込
 

蔦の実文学会の活動
当文学会では、北九州市の黒崎において、毎回ある決まったテーマに基づく文学講座を開催しています。小説・随筆・詩などの創作や、哲学・評論・思想、あるいは映画批評・映画論など、多種多様なジャンルの中からテーマに即した文章を紹介し、それらの精読と比較を通して、取り上げたテーマについてわかりやすく解説していきます。また、必要に応じて写真や絵画、音楽や映画の断片などを参照しながら、「文学の新たな発見」を目指していきます。

学生・社会人を問わずどなたでも参加できます。今までの読書経験が多いか少ないかもまったく問いません。あまり本は読まないけれど、何か面白いことがあるなら読んでみたいと思う方、本を読むのは好きだけど、読書の幅をもっと広げてみたい方、読んでよくわからなかったものや、何か難しそうに見えるものについて、理解を進めてみたい方、あるいは、今の生活の中にちょっと異質な楽しい時間がほしい方など、様々な方々のご参加をお待ちしております。
 
講座の詳細
講座に参加するにあたって、テキストを事前に読んでおく必要は特にありません。簡単な作家紹介に続き、参加者全員でテキストを輪読していきます。一文や一語に詳細な解説を加えながらゆっくりと輪読を進めたあとに、資料を用いてその日のテーマの要点を整理してお話しします。さらに、質疑応答や意見交換によって、日常ではあまり話し合う機会のないような話題をめぐってコミュニケーションを深めながら、理解を共有していきます。

一人では難しいと感じたり見落として気づかずにいたりすることも、他の人といっしょに時間をかけて丁寧に精読し、対話の中で疑問点をクリアにしていけば、ほとんどのことはある程度明確な形で浮かび上がってくるはずです。また、参加者それぞれの異なる感じ方や考え方に触れることで、同じひとつのテキストを様々な視点から見つめなおすこともできます。

当講座では、基本的に複数のテキストから共通のテーマを取り出していきます。それぞれのテキストを互いに参照したり比較したりしながら、取り出したテーマをよりわかりやすく浮かび上がらせます。また、通常は異なる分野に属するものとして扱われる異種のテキストを並べてみることで、ジャンル横断的な読解の可能性を探っていきます。
 
良い本との出会い
自分にとっての良い本を探すということを、長い間続けてきました。他人が良いと言った本が、必ずしも自分にとっての良い本になるとは限りません。多くの人から高い評価を受けてきた作品が、自分にとっての大切な読書体験をいつでももたらすわけではありません。

けれど、たとえば古典と呼ばれる作品には、多くの人を惹きつけてきた歴史があります。おそらくそこには、何か大きな力が秘められているのだろうと思います。自分の力不足のためにその魅力が感じられず、良い出会いにはならなかった、ということは多いのではないかと思います。出会ってから二十年、三十年経ってから、はじめてわかる魅力というものもあります。

自分の力を高める、ということは常に意識しつつ、先のことは先にまかせて、「今」の読書を重ねていく、今この時の自分の感じ方に忠実に、思うまま好き勝手に進めばよい、それでどこに行きつくのであろうと、覚束ない思いながらも自分ひとりで選んでたどってきた道なのだから、すっきりと受け入れて、迷いなく納得できたらいいと思います。

ただ、自分がこれと決めた好みに、あまり縛られすぎるのはよいことではありません。自分を何か狭いところに閉ざすようなことはせず、いろんな方向へ開かれていること。自分はこちらの住人、そっちにはいかない、ということばかり続けていると、柔軟さが失われ、凝り固まった偏狭さに陥る危険があります。どんな方向に向かったとしても、よい出会いはあるかもしれない、という「若さ」が大切だと思います。
 
驚きと変化
本を読んで、今までに思ってもみなかった驚きを感じることがあります。読んだそのときに初めて知られる驚き、事前に想定されていなかった驚きというものがあります。それは、何か新しいものとの出会いであり、そこから自分自身の中に新しい考え方や感じ方が生まれていく出発点にもなります。

また、読書は、読んだ者に何らかの変化をもたらします。どんなものを読んだとしても、自分の中の何かが、多かれ少なかれ変わります。どれほど退屈したとしても、それを読む前と読んだ後では、自分の中に何らかの変化が生まれているはずです。

もしよい出会いに恵まれるなら、思いがけない驚きとともに、何か大きな変化が自分自身の中に起こります。貴重な読書体験とは、もう元には戻れないような決定的な変化をもたらすものです。それを読んだために、自分を取り巻く景色が変わる、世界が何か別の相貌のもとに立ち現れる、ということが起こるようなものです。
 
「わからないこと」との闘い
世界は「わからないこと」に満ちています。すべてを解決する時間も能力も人間にはありません。人は自分が主に何に取り組むかを選択し決定して、あまり「わからない」状態にもどかしく悩ましくはまり込み続けることのないように、その日その日をやりくりして過ごしています。

けれど時には、嫌も応もなく難しい問題に突き当たり、どうしたらよいかわからない状態に投げ込まれます。従うべきか、逆らうべきか。結婚すべきか。離婚すべきか。産むべきか。死なせるべきか。生きるべきか、死ぬべきか。いくら考えても、これという結論は出てこない、けれど何かを選び、決めなければならない。危機的な限界状況というものは、死すべき人間にとって、避けようとしても避けられないものです。

多くの文学は、そのような限界的な状況での人の身の処し方を描いてきました。どんな人も、文学が描く人物の誰かに似ているかもしれないし、文学が描く行為を繰り返しているかもしれません。文学などにまったく興味はない、と言い張る人も、文学作品の中に自分のことが事細かく描かれていることを知れば、多少は気にはかかるかもしれません。

文学には、「わからないこと」に真っ向から取り組み続けた優れた先人たちの、すべてを賭けた闘いがあります。作家は、どんなものに対して、何のために、そのような闘いを挑んでいるのでしょうか。作品を読むとは、作家たちの闘いの跡をたどることです。優れた文学作品とは、わからないものとの格闘のなかで、幻のような花を咲かせて、ついに独自の実を結んだものです。それは、読者の中にその種子が根づく可能性を秘めながら、世代から世代へと受け継がれています。
 
文学の謎と魅力
文学作品に綴られた言葉は、日常的な使用方法から逸脱していく傾向があります。「わからないこと」との紆余曲折を積み重ねてゆく闘いは、必ずしもわかりやすいものばかりではありません。作者はいったい何と、何のために闘っているのか。それが容易につかめないことも多く、ときには「わけがわからない」ところまでいってしまうものもあります。

文学には謎があります。人生の謎への挑戦である文学は、それ自体ひとつの謎です。世界中で「文学研究」が果てもなく進められているのはそのためです。それが終わらないのは、その謎は決して決着のつくものではないからです。すっかり解かれることのない謎。それはいたるところで強い磁力で人を惹きつけながら、逃げていきます。

謎は人を惹きつけます。文学の謎は、解ける解けないを超えた魅力を持っています。読んで考えるということは、それをかりそめにも解いてみようとする試みですが、なにか解けた気がしても、まるで解ける気がしなくても、いずれにしても予想外の驚きと大きな愉しみをもたらす可能性をはらんでいます。

文学の愉しみは、謎が解けることにあるのではありません。わかるわからないは、小さなことです。結論めいたことを口にしても、何か変なものがそこからこぼれ落ちている、という感触がいつも残ります。何も終わっていない、という感じがあります。そういう意味で、シェイクスピアはわからない、ドストエフスキーもわからない。それが豊かさというものであり、魅力です。

作品の細部を丁寧に読んで考えることでしか、その豊かさを体感することはできません。「5分でわかる映画紹介」といったユーチューブ動画が映画との出会いを妨げるように、文学作品を何か固定された解説の中に閉じ込めてわかった気になることは、文学との出会いを妨げます。知っているつもりの作品でも、そのこまごまとした細部から、なんだかよくわからない奇妙で見知らぬものが浮かび上がってくる、それが読むことの尽きることのない魅力です。
 
「読む現場」の共有
読んだ本についてほかの人が語ることは、その作品や自分自身について多くのことを教えてくれます。ただ「面白かった」「退屈だった」といった全体の印象だけにとどまるのではなく、「読む現場」で起こったはずの微妙な心の動きにまで触れていく話なら、より大きな刺激となります。

本はひとりで読むものですが、たまには「読む現場」を共有してみるのも面白いかもしれません。だれかと一緒に読むという機会はあまりないし、読んだ瞬間に出てきたものは自分だけのものです。それをその場で共有してみる。当文学会では、あくまでその場の空気感を大事にしながら精読を進めていきます。

これまで得た知識にとらわれすぎず、はじめて出会うものに接するような新鮮さで、「わからないもの」としてのテキストに向かうこと。その中で少しでも、新しい驚きや、ものを見る見方の変化が生まれれば、それはちょっとした楽しい経験になるかもしれません。

どんなものにせよ、何かを共有することには喜びがあります。そこに共感が生まれるなら、さらに楽しいことでしょう。違和感でさえ、次の道をたどるためのひとつのきっかけになります。

読んだ経験の多少、語学力どうこうはたいしたことではありません。その時々のどんな事情もすべてそれぞれの「読む現場」を作り出します。「現場」で何が起こるのか、それをすべてあらかじめ知ることはできません。本を開く前に構えすぎると、よい出会いの機会を逃すかもしれません。何か新しい驚きや愉しみを見つけるために動き続けることは、生を充実したものにしてくれることだと思います。
 
ひっぱれば思はぬ蔦の動きけり ― 正岡子規
 
Rigodon Dance 文学覚書
Vision in Motion 映画覚書/映画一覧(制作年順・お勧め順)

主宰 星野伸夫
1969年生れ。東京大学文学部フランス語フランス文学科卒業。SE、塾講師を経て、2010年より北九州市にて進学塾「星野塾」を運営。2024年閉塾後、介護に携わりながら、当文学会を設立。