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三人の女性
2026/01/22
 
『国宝』(2025年)

監督:李相日 原作:吉田修一 脚本:奥寺佐渡子 撮影:ソフィアン・エル・ファニ 美術:種田陽平 音楽:原摩利彦 出演:吉沢亮 横浜流星 高畑充希 永瀬正敏 宮澤エマ 渡辺謙 寺島しのぶ 黒川想矢 越山敬達 芹澤興人 田中泯 三浦貴大 見上愛 森七菜 中村鴈治郎 瀧内公美

黒川想矢と吉沢亮が演じる主人公の喜久雄は、ヤクザの跡取りから歌舞伎役者の第一人者への変身を遂げる物語の中で、三人の女性と関係を結ぶ。この女性たちは、喜久雄が女形として成長していく過程で、「舞台上に理想的な《女性》の幻像を実現する」という試みの成就のために、絶対的な《父》としての半二郎(渡辺謙)や、《母》的な役割を果たす万菊(田中泯)などの男たちが与えた影響の大きさに比べると、はっきりした積極的な役割を担っているようには見えない。

高畑充希演じる春江は、大きな困難を抱える男に惹かれる。彼女は、喜久雄が父を失い、先へ進む道がほとんど途絶えかけたように見えるとき、この男にどこまでも附いていくことを選ぶ。けれど喜久雄に成功の道が開かれようとするときには、置き去りにされた半弥(横浜流星)の姿が、彼女の中でその存在をふくらませてゆく。見捨てられる者への母性的な執着のようなものが、この女性の選択を決定づけている。

見上愛演じる藤駒は、おそらく恵まれなかった境遇の中で、誰よりも強い自尊心を育んできたように見える。この女性は、大きな野心の実現の道を探し求めている。喜久雄に出会い、その突出した力を確信し、自分の持つ眼力にふさわしい名誉を獲得するために、この男に賭ける。この男の子供を産むこと。それは、どんな不幸も耐え忍ぶ力を与える、大きな誇りと喜びをもたらすだろう。この女性はそんなふうに考えたのかもしれない。

森七菜演じる彰子は、恋の情念は境遇の障害を越える、とする一般的な恋愛観に基づいて、家を飛び出し、喜久雄のドサ回りに付き従う。だが貧困と侮辱の連続の中で、忍耐の限界に近づいた末に、彼が自分以外のものをいつも見ていること、そしてその視線の先には、何か生身の女には張り合うことのできないものがあることをはっきりと悟って、男のもとから離れてゆく。

喜久雄の視線の先にあるものとは何か。それを知っているのはおそらく、《父》半二郎と、《母》万菊だけだ。だが自分が見るのは、それ以上のものになるかもしれない。そうした予感に突き動かされて、喜久雄は舞台に立ち続けている。

特権的な男性たちだけが知り得る、奥義秘伝の閉じた世界。そんな世界を前にして、それぞれが個性的な魅力を漂わせる三人の女性たちは、彰子が感じとったように、立ち入りを禁じられ、門前ではじかれている。《父》も《母》も理想の《女性》も、すべて男たちだけで構成される「完全男性社会」の中で、三人の女性たちは、男たちの優越の前に慎ましく控えている。

どこにでも入り込めるカメラによって、大きな自由を獲得した映画にとっては、「舞台の上」の輝きよりも、「舞台の裏」の充実の方が重要になる。『国宝』は、企画・構成的に「舞台の上」への傾きが強すぎるために、「舞台の裏」が文字通り「裏方」として控えてしまうところがある。

主人公と性的な関係を結ぶ三人の女性たちは、「舞台の上」で実現される美の化身としての《女性》の創造には、それほど大きな影響を及ぼしてはいないように見える。「舞台の上」の俳優たちの厳しい鍛錬の末に出来上がった映画『国宝』の物足りなさは、《女性》の創造が問題であるにも関わらず、生身の女性たちの役割が小さすぎるところにある。

おそらく、喜久雄が舞台上で演じる《女性》たちの《情念》の中に、この三人の女性や、あるいは半弥の母幸子(寺島しのぶ)、藤駒の娘綾乃(瀧内久美)らの存在は、深く影を落としているのかもしれない。だがもしそうだとしても、それは観る者にはっきりとした形では伝わってこない。それを明確に伝えるためには、もう少し別の構成・演出が必要とされる気がする。

男たちは舞台の上に《女性》の幻像を作り出し、女たちは舞台の裏で自らの生の形を作り出す。舞台の上と同様に、舞台の陰で息づく生の創造の営みにも、映画は等しく光を当てる。「表舞台」と「舞台裏」の絡み合いの凄まじさ、「舞台の表と裏」のせめぎ合いの緊張、そうしたものが溢れ出すような一瞬のショットを、『国宝』に見出すことはできなかった。